[PR]看護師の好条件な求人情報満載:年間30,000人の転職看護師が利用中

一木散歩会(品田 毅)

内藤新宿・大木戸上水槽あたり

平成16年7月1日

新宿御苑



主な見学ポイント
(1)信濃町駅付近

慶応大学病院

(2)新宿御苑正門

(3)内藤町

このあたりは高遠城主の下屋敷。内藤町は1番地しかない。玉川用水の落ち水の跡が見られる。

(4)我が国最初の鉛筆工場(真崎仁六)跡

(5)多武峰神社

内藤氏の先祖をまつる。

(6)玉川上水の江戸の町への配水地  玉川上水の碑

(7)四谷大木戸跡の碑

(8)内藤新宿(甲州街道の宿場町)

江戸浅草阿部川町名主 高松喜六が願い出て、元禄11年(1698)に開設された宿場。享保3年(1718)幕命にて取りつぶし(内藤大八事件)。明和9年(1772)道奉行 安藤弾正少弼 許可再開。飯盛女150人と制限(品川500人、他は150人)。大木戸〜追分 間に町屋をつくる。

(9)太宗寺(たいそうじ)

 内藤氏菩提寺。境内に江戸六地蔵のひとつ、閻魔堂、奪衣婆(だつえば)の像、内藤氏累代の墓、不動堂 布袋尊(七福神のひとつ)、切支丹燈篭などいろいろある。

(10)正受院(しょうじゅいん)

太宗寺の北。ここにも奪衣婆像あり。

(11)成覚寺

投込み寺(遊女)。旭地蔵(情死18人の名を刻む。もと天竜寺そばにあった)。子供合埋碑(こどもごうまいひ)(子供とは遊女のこと。病死などしたものを供養。万延元年旅籠主達が建立)、白糸塚(鈴木主水と白糸の碑、嘉永5年(1852)建立、市村座で上演「すえの世 も結ぶえにしや糸柳」)、恋川春町の墓(生涯苦楽四十六年今脱却浩然帰天、われもまた身はなきものと思いしが、今わのきは…)。戯作者・狂歌師自殺。

 

(12)花園神社

内藤新宿の鎮守。尾張公創建。 三光院稲荷、石燈篭(高松喜六寄 進)、銅の唐獅子(文政4年 氏子奉納。区文化財)昭和3年9月富士塚。伊勢丹が氏子になっている。


 

(13)伊勢丹・三越物語

 伊勢丹は神田松坂町呉服店。新宿三丁目の市電車庫のあとにうつる(昭和8年)。隣は大正15年ほていやデパート(四谷布袋屋呉服店がうつる)。昭和10年伊勢丹がほていやを合併する。
 三越は震災後、追分にマーケットを開く(市内8ヶ所のひとつ)。大正14年、新宿駅前(現スタジオアルタ)。昭和5年 現在地。

(以下、3ケ所は時間の関係で割愛、ここまでで午後2時となる、参加者51名、梅雨の中休み、晴天、気温30度を超える、)

(14)天竜寺

(15)東京みちの情報館

   
国土交通省が平成12年8月10日(道の日)に開設。新宿御苑 新宿門隣。TEL:3226-6712

(16)新宿御苑の変遷

明治5年9月:内藤氏上納の土地と隣接地で大蔵省所管「農事試験場」設置。
明治7年:内務省所管「農事修学所」設置。
明治12年:宮内庁所管「新宿植物御苑」。果樹・野菜等の研究。
明治34年:庭園化。明治39年:「新宿御苑」となり、皇室の庭園として 外人客を迎えたりした。
昭和24年:一般公開。「国民公園新宿御苑」
昭和46年:環境庁所管。




一木散歩会ギャラリー

 玉川上水落水跡:玉川上水の水量を調節するための落ち水を流す溝が新宿御苑東側にあった。現在はその痕跡が見られるだけである。

 玉川上水暗渠:新宿御苑 大木戸門交差点から新宿駅へ向かっての眺望。
 新宿通南側に平行しているこの通りは玉川上水の暗渠で、都水道局の所管になっていて、水道局のシンボルマークが刻されている。

 正受院-梵鐘:1711年に鋳造された正受院-銅造の梵鐘。総高135cm、口径72.8cm。この鐘は太平洋戦争中に金属供出されたが、戦後アイオワ州立大学内海軍特別訓練隊で発見され、昭和37年12月に正受院に返還された数奇な来歴を持つ。「平和の鐘」と呼ばれる。(正受院-説明板より)

花園神社

玉川上水暗渠

太宗寺-地蔵菩薩

太宗寺-布袋尊

成覚寺-子供合埋碑

遅い昼食時、品田兄の補足説明と次回予定の連絡

暑い散歩会でした、ビールがこんなにうまいとは


『解説』玉川上水と江戸西郊の開発

 承応二年(一六五三)家光の遺志を継いだ家綱は、玉川上水、つまり多摩川と江戸を直結する水路の開発を計画し、羽村ー内藤新宿大木戸間(現在の西多摩郡羽村町−新宿区内藤町)間の約四四キロの水路を、武蔵野台地上に掘り割った。
 建設当時の真相はよくわからないが、ここではいちおう、当時の川越城主でもあった老中・松平伊豆守信綱の発議で、その家臣安松金右衛門が上水路の選定・設計を行い、施工は町人・庄右衛門、清右衛門兄弟(後に玉川という姓を許される)があたり、承応二年四月から翌三年「六月二十日」に竣工(『徳川実紀』)したものとする。
 この上水路の通りみちをみると、実にたくみに毛細血管状に入りこんだ台地内の谷の境=尾根を選んで掘られていることに一驚する。形容詞ではなく尾根の上を綱渡りしているような状態で水路が掘られている場所は二、三にとどまらない。
 上水路沿岸の村は、羽村・福生村・熊川村・拝島村・上河原村・宮沢新田・砂川村・小川村・鈴木新田・田無村・下小金井新田・梶野新田・境村・上保谷村・関前村・西久保村・吉祥寺村・上連雀村・下連雀村・牟礼村・久我山村・上高井戸村・下高井戸村・和泉村・代田村・幡ヶ谷村・下北沢村・代々木村・角筈村・千駄ヶ谷村・四谷天竜寺門前・大木戸までの三一ヵ村におよんだ。
 これを現在の行政区画でいえば、羽村町・昭島市・立川市・小平市・田無市・小金井市・武蔵野市・三鷹市・杉並区・世田谷区・渋谷区・新宿区の四区七市一町におよぶ。
 前にのべたように、武蔵野台地上は非常に水が乏しい。台地ほぼ中央に田無という地名があるように、たとえ谷の部分にしても大規模な水田耕作はできない状況が一般的であった。
 玉川上水が武蔵野に縦横にはしる尾根を″綱渡り″した状態で流れるように設計したということは、水路の両岸のどの部分にも分水が可能であるという、いわば副次的な効果をもつ結果になった。『上水記』が書かれた時点には、玉川上水から台地上の村々に分水した個所は三五カ所におよんだ。
 当初から計画された分水路は小川村から分水された野火止用水であり、平林寺を経て志木に至る農業用水であった。のちに千川上水・三田用水もまた玉川上水から分水された。
 四谷大木戸から市内に入った上水の主流は、江戸城内と赤坂・虎門一帯を経て、江戸前島南端・築地・八丁堀・新川などの主として埋立地に給水された。南は古川を限り、一部は古川をこえて給水された。市内に埋設された給水用の石樋・木樋の総延長は、ニー里二〇町余(約八八キロ)におよんだ。
 こうして江戸における最大の都市間題である水道施設は神田・玉川両上水により、ほぼ解決し、その後明治三四年(一九〇一)ハ月三〇日まで、江戸−東京市民の水道として約二五〇年間利用され続けた。
 しかも玉川上水の本来の目的である江戸水道としての役割のほかに、前述のように武蔵野台地に分水された用水は、台地の広大な面積を農地化した。すなわち「新田」の開発である。もっともこの場合の「新田」とは、水田を意味せず、沿岸各村の飲料水と畑の港漑を意味した。その結果、江戸の西郊は急速に近郊農村化していった。
  (鈴木理生著:「江戸の川・東京の川」より)

玉川上水の水路と地形

(東京都水道局資料)
  
  


企画・構成・写真・地図・解説・編集:品田、尾科、濱口、小幡、三明、


以上

[PR]中古車探しは、ガリバー:在庫多数、全車保証つき!